2006年05月20日
命日
私の父は去年の6月に亡くなった。20日は祥月命日である。一周忌はもうすぐである。
~父が亡くなった(呼吸停止)のは明け方だった。そろそろ起きる時刻かな?そう言う頃に電話が鳴ったのだ。
「**病院ですけれど、++様の呼吸が停まりましたので至急病院まで来てください」
しかし、その時間帯は電車がやっと動き出していてしかも病院までは早くても1時間はかかる。母を起こして病院からの電話の内容を伝えた。そして母は妹と近くの伯父の家に連絡をしていた。私は新しい職場へ連絡をして、暫く就職が出来ないことを伝えに行った。その時の職場にはもっと早く連絡をしたかったが、できなかったためかなり遅くなってから伝えた。近頃の面接は親のことを聞かない。だから、誰も私の親が入院していたことを知らなかった。狐につままれたかのような受け答えになっていた上司に私は「葬儀の日取りは追ってお知らせします」と言って電話を切った。
~葬儀は何日か後に行われたため、新しい会社のために使う休暇を全部使い切ってしまった。そして、色々な事情で転職は失敗してしまった。その会社に入っていればもう少し違ったかも知れないのに・・・・
~葬儀の当日、初夏の日には喪服は暑かった。近所の人たちがかなり参列して来た。この参列者は母の人柄によって集まってきたものであったと思う。家は父ではなく母でもっていたのだ。母は町内会の役員に電話を入れて、かなり事細かに指導するかのように連絡していた。まだ若い奥様が班長としてやって来て(初めての経験なので)おどおどしながら年配の奥様方に聞いていた。
~葬儀の受付には妹の同僚たちが交代でやって来て手伝っていた。私の同僚などは殆ど来なかった。上司は終わる頃やっとやって来た。心の中でニマっとして彼女らを見てしまった。父の兄弟の子供たち(従兄弟)と正気の伯父と(他の伯父たちは痴呆で来られなかった)妹の子達とお舅さん方が来ていた。妹の亭主がろくに挨拶をしなかったので、伯父たちがいぶかしげに私に「紹介して」と言われたのには参った。
~父の死に顔を見ることはなかった。あの(生前の)恨みがましい眼を忘れることが出来なかった私だからやはり死に顔を見るのは到底無理だった。お葬式の写真を撮ってみた私が、今にして思うのは死相を見たくないという気持ちの表れだと推測して欲しいと、ただそれだけが願いだった。
~通夜でもお棺の中の父の顔を何度も見ていたのは妹だけだったろう。妹は私のように迫害をされていなかったから、いい部分しか見ていなかったのだ。だから、泣いたのも妹だけだった。父のお棺に花だけでなく、家とか花の写真とか一日分のご飯をおにぎりのようにして入れた。だから金属を多く含むギターとか、私が昔プレゼントとしてあげたベルトとかは入れてあげられなかった。
~彼に父が亡くなったことだけを伝えた。モーニングコールと会いに行くことの2点が出来ないと伝えた。本当は彼にも(まるで無関係だったが)葬儀に出て欲しいくらいだった。もっと固まった関係だったらなんだけれど・・・重石が取れたら母が私に「もう一緒にいなくていいよ」と言うかも知れないとふっと思ったからだ。「まだ駄目なんだよ」彼は言った。「いつかお線香をあげに来てね」そう言ってその日は電話を切った。
~父は火葬場で焼かれて骨になった。骨壷いっぱいの骨たちの最後に頭の骨が少し潰されて入った。骨壷を抱えた妹は帰りのバスの中でしくしく泣いていた。位牌を母が、遺影を私が持った。葬議場に向かうバスの窓から私の母校(S高校)が見えていた。無邪気に叫ぶ私は滑稽だったかもしれないが・・・・
~妹の運転する車で家へ帰ってきた私たちは「終わったんだ」とそれぞれ思ったんだ。伯父夫婦と従兄弟の夫婦は近くの駅まで歩いて行った。35年ぶりに会った従兄弟の奥さんの後姿を今でも忘れない。彼らも大叔父の生前苦労したのだそうだから。
あれから11ヶ月経ったんだ。一周忌は一ヵ月後だ。納骨が遅れに遅れて一周忌の時に納骨が出来ることになったのだ。従って今回は新盆を盛大には出来なくなった。1年なんてあっと言う間なんだね。長いようで短い。
~父が亡くなった(呼吸停止)のは明け方だった。そろそろ起きる時刻かな?そう言う頃に電話が鳴ったのだ。
「**病院ですけれど、++様の呼吸が停まりましたので至急病院まで来てください」
しかし、その時間帯は電車がやっと動き出していてしかも病院までは早くても1時間はかかる。母を起こして病院からの電話の内容を伝えた。そして母は妹と近くの伯父の家に連絡をしていた。私は新しい職場へ連絡をして、暫く就職が出来ないことを伝えに行った。その時の職場にはもっと早く連絡をしたかったが、できなかったためかなり遅くなってから伝えた。近頃の面接は親のことを聞かない。だから、誰も私の親が入院していたことを知らなかった。狐につままれたかのような受け答えになっていた上司に私は「葬儀の日取りは追ってお知らせします」と言って電話を切った。
~葬儀は何日か後に行われたため、新しい会社のために使う休暇を全部使い切ってしまった。そして、色々な事情で転職は失敗してしまった。その会社に入っていればもう少し違ったかも知れないのに・・・・
~葬儀の当日、初夏の日には喪服は暑かった。近所の人たちがかなり参列して来た。この参列者は母の人柄によって集まってきたものであったと思う。家は父ではなく母でもっていたのだ。母は町内会の役員に電話を入れて、かなり事細かに指導するかのように連絡していた。まだ若い奥様が班長としてやって来て(初めての経験なので)おどおどしながら年配の奥様方に聞いていた。
~葬儀の受付には妹の同僚たちが交代でやって来て手伝っていた。私の同僚などは殆ど来なかった。上司は終わる頃やっとやって来た。心の中でニマっとして彼女らを見てしまった。父の兄弟の子供たち(従兄弟)と正気の伯父と(他の伯父たちは痴呆で来られなかった)妹の子達とお舅さん方が来ていた。妹の亭主がろくに挨拶をしなかったので、伯父たちがいぶかしげに私に「紹介して」と言われたのには参った。
~父の死に顔を見ることはなかった。あの(生前の)恨みがましい眼を忘れることが出来なかった私だからやはり死に顔を見るのは到底無理だった。お葬式の写真を撮ってみた私が、今にして思うのは死相を見たくないという気持ちの表れだと推測して欲しいと、ただそれだけが願いだった。
~通夜でもお棺の中の父の顔を何度も見ていたのは妹だけだったろう。妹は私のように迫害をされていなかったから、いい部分しか見ていなかったのだ。だから、泣いたのも妹だけだった。父のお棺に花だけでなく、家とか花の写真とか一日分のご飯をおにぎりのようにして入れた。だから金属を多く含むギターとか、私が昔プレゼントとしてあげたベルトとかは入れてあげられなかった。
~彼に父が亡くなったことだけを伝えた。モーニングコールと会いに行くことの2点が出来ないと伝えた。本当は彼にも(まるで無関係だったが)葬儀に出て欲しいくらいだった。もっと固まった関係だったらなんだけれど・・・重石が取れたら母が私に「もう一緒にいなくていいよ」と言うかも知れないとふっと思ったからだ。「まだ駄目なんだよ」彼は言った。「いつかお線香をあげに来てね」そう言ってその日は電話を切った。
~父は火葬場で焼かれて骨になった。骨壷いっぱいの骨たちの最後に頭の骨が少し潰されて入った。骨壷を抱えた妹は帰りのバスの中でしくしく泣いていた。位牌を母が、遺影を私が持った。葬議場に向かうバスの窓から私の母校(S高校)が見えていた。無邪気に叫ぶ私は滑稽だったかもしれないが・・・・
~妹の運転する車で家へ帰ってきた私たちは「終わったんだ」とそれぞれ思ったんだ。伯父夫婦と従兄弟の夫婦は近くの駅まで歩いて行った。35年ぶりに会った従兄弟の奥さんの後姿を今でも忘れない。彼らも大叔父の生前苦労したのだそうだから。
あれから11ヶ月経ったんだ。一周忌は一ヵ月後だ。納骨が遅れに遅れて一周忌の時に納骨が出来ることになったのだ。従って今回は新盆を盛大には出来なくなった。1年なんてあっと言う間なんだね。長いようで短い。
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この記事へのコメント
その気持ちは良く分かるよ。
Posted by orbiter at 2006年05月22日 19:06
親だから憎みたくはないけれど、痴呆だから、多めに見たけれど、父のことは今でも許したくない。母も同罪だ。
Posted by Chisato66 at 2006年05月22日 19:30


